小学生低学年からサッカーをしており、セレクションを受け、ガンバ大阪ジュニアユースの入団テストに合格し、同期には今も現役で活躍する宇佐美貴史や昌子源、その他その世代を代表する選手と共にサッカーをしていました。しかし、中1の夏に全国大会の前に接触プレーで骨折と肉離れ、冬には足首の手術、中2の夏に逆足首の手術を行い、中学生の半分以上は怪我で満足にプレーが出来ず、一度はサッカーから離れることも考えました。青森山田へ入学してからも故障やスポーツ貧血などで選手としては活躍することは出来ずに、その時からプレーヤーから支える側に回ることを決意しました。
宝塚医療大学に入学後は「主席卒業」を目指し、学業とアルバイトをしアメリカ研修にもアルバイトでためたお金で行き、そこで学んだことを日本で活動できないかを恩師の吉井健悟先生(京都府立医科大学)に相談し、学生としてスポーツトレーナーを目指す学生の団体を立ち上げました。卒業時には入学時に掲げていた「主席卒業」をし、全国柔整鍼灸協同組合理事長賞を授与されました。
トレーナーとしては某サッカーチームの研修や全国各地のマラソン大会にメディカルサポートとして参加し、フィリピン大使館後援のマラソン大会や中の島チャリティ・ランでは有森裕子氏ら、多くの著名ランナー、市民ランナーのサポートを行いました。実際の現場活動だけでなく学生に対しての指導や、近隣高校の部活動マネージャーへのテーピング指導、大学での講師活動など多岐にわたる活動を行いました。